(つづき)
ワタクシがネパールに初めて来たのは2001年2月のことである。
「ワタクシ、悪いけどネパール行ってくれ」
という課長からの「赴任内示」がきっかけ、である。
(この話、前書いたんだけどいつだっけ???)
ワタクシがネパールに初めて来たのは2001年2月のことである。
「ワタクシ、悪いけどネパール行ってくれ」
という課長からの「赴任内示」がきっかけ、である。
(この話、前書いたんだけどいつだっけ???)
ワタクシにとって2001年という年は記録に残る激動の年で、降って湧いたネパールへの赴任があったかと思うと、赴任直後の右も左もわからない時期に、いきなり「王宮事件」の勃発に遭遇した(仕事上の事件はもっといっぱいあったが)。
この事件の前夜、ワタクシは赴任先の田舎町からカトマンズへ出てきて、久しぶりの街の雰囲気を堪能して、上機嫌で寝ていたのであるが、陽も上がりきらぬ未明に同僚から電話が入り、
「ワタクシ、落ち着いて聞いてくれ・・・王宮で暗殺事件があったらしい。みんなに伝えて」
と言われてぶっ飛んだ。
というより、「王宮」も、「暗殺事件」も、朝6時過ぎにたたき起こされた、赴任したてのワタクシのアタマには、タチの悪い冗談にしか聞こえず、一方で事情をすべて飲み込み、(おそらく)手分けして他の在住者にも電話連絡をしていた途中であろう同僚に向かって、
「ちょ・・・ちょっと待って、王宮って、どこだっけ?」
「暗殺って・・・犯人は誰なの?死んだのは誰なのっっ???」
等々、
「訊いてどないやねん(笑)」
という質問をくり返していた記憶がある(ホンマに、ソレ訊いて、どないやねん?!)。
この日は確か、外出禁止令に続いて戒厳令が発出され、事情のわからないまま、宿泊していたホテルの部屋で、ぼやっっ、と、事情通の同僚からの連絡を、ただひたすら待ち続けていた記憶がある。
で、この事件の落ち着いたところで、強制的に休暇を取らされ、それでは、と、一番仲が良かった同期入社の建築系社員のいたメキシコにアソビにいったところで、今度は、9.11に遭遇した、というような次第である。
(あまり書きたくないが、まあ、そう、ご想像の通り「お前が事件を連れてくる」と、どれだけ言われたか。笑)
メキシコ滞在時の事件についても、どこぞに書いた記憶があるのだが、まあそれは置いといて、そもそも2001年からこちら事件のない年がないネパール生活、今回の震災まで含めると、天変地異や政変、経済危機に幾多の冠婚葬祭、まあ、ありとあらゆる事件、事象を経験してきた気がする。
それら数多くの事件を乗り越えて、数年前に独り立ちして今の商売を始めたわけであるが、まあ、目標というのか、野心というのか、は、それなりにあったわけである。
ワタクシ個人の心情心境について、皆さんはあまり興味ないことと思うので詳述はしないけれども、やはり、自分の経験を活かし、かつ試し、組織の力に頼らずに(いや、まあ、頼るんだけど)、この、いろんな観点からみて魅力的な土地で、なにかを成し遂げてみてはどうだろうか、というような、漠然とした気概があったのは事実である。
ネパールには産業が乏しい。ということは、いろんな起業の可能性がある、ということである。
ネパールでは電力、交通、水道その他のインフラが未発達である。ということは、それらの分野でスタンダードを作り、長きにわたって回収していくようなビジネス展開も可能、ということでも、ある。
ネパールは海岸を持たない内陸国であり、海を利用して生きてきた日本やシンガポールのようには(同じ戦略では)発展できない(あるいは、難しい)。が、世界に14座しかない8000m峰のうち、実に8座を有し、かつ、空港のある首都からのアプローチが(小国であるが故に)極めて短く、世界に冠たるシェルパ族を有している。その上、ヒマラヤ征服登山史の恩恵で、幅広く外国人を受け入れる土壌があり、インフラは未整備なものの、4000〜6000の未踏峰へのチャレンジの道も、比較的広く、開け放たれている(政府も年々、許可の範囲を広げている)。
これらヒマラヤから流れ出る水量は世界でも類を見ないほど豊富であり、これを利用した水力発電所をいくつか建設するだけで、インドとのエネルギー需給バランスを拮抗させることができる上、二酸化炭素排出を抑える形でのエネルギー政策の展開まで、可能である(と、言われている)。
ネワールを中心とした高度な職人芸術気質をうまくリードすれば、プログラミングではインドに負けても、グラフィック中心のIT産業を育成する道も、夢ではないのではないか。
等々、等々。
ワタクシ個人にできることなど、当然、限られている。というか、まあ、現時点でも、これらは夢物語にすぎない。
それでも。
それでも。
なにか、可能性を感じて、残ったのではなかったか。閉塞していく日本で、すり切れながらなんとか生きる道を探していくよりも、いろんな可能性(ツブれる可能性も含めて)の残るこの場所で、思いっきりやってみようと、思ったのではなかったか。
それは、わかっているのだけれど・・・。では今、ワタクシ自身に何ができるのか、そうした理想や理念を語る前に、今、目の前で困っている被災者に、何ができるのか・・・。
具体的な答の出ないまま、刻一刻と、時間だけが過ぎていった。
(つづく)
この事件の前夜、ワタクシは赴任先の田舎町からカトマンズへ出てきて、久しぶりの街の雰囲気を堪能して、上機嫌で寝ていたのであるが、陽も上がりきらぬ未明に同僚から電話が入り、
「ワタクシ、落ち着いて聞いてくれ・・・王宮で暗殺事件があったらしい。みんなに伝えて」
と言われてぶっ飛んだ。
というより、「王宮」も、「暗殺事件」も、朝6時過ぎにたたき起こされた、赴任したてのワタクシのアタマには、タチの悪い冗談にしか聞こえず、一方で事情をすべて飲み込み、(おそらく)手分けして他の在住者にも電話連絡をしていた途中であろう同僚に向かって、
「ちょ・・・ちょっと待って、王宮って、どこだっけ?」
「暗殺って・・・犯人は誰なの?死んだのは誰なのっっ???」
等々、
「訊いてどないやねん(笑)」
という質問をくり返していた記憶がある(ホンマに、ソレ訊いて、どないやねん?!)。
この日は確か、外出禁止令に続いて戒厳令が発出され、事情のわからないまま、宿泊していたホテルの部屋で、ぼやっっ、と、事情通の同僚からの連絡を、ただひたすら待ち続けていた記憶がある。
で、この事件の落ち着いたところで、強制的に休暇を取らされ、それでは、と、一番仲が良かった同期入社の建築系社員のいたメキシコにアソビにいったところで、今度は、9.11に遭遇した、というような次第である。
(あまり書きたくないが、まあ、そう、ご想像の通り「お前が事件を連れてくる」と、どれだけ言われたか。笑)
メキシコ滞在時の事件についても、どこぞに書いた記憶があるのだが、まあそれは置いといて、そもそも2001年からこちら事件のない年がないネパール生活、今回の震災まで含めると、天変地異や政変、経済危機に幾多の冠婚葬祭、まあ、ありとあらゆる事件、事象を経験してきた気がする。
それら数多くの事件を乗り越えて、数年前に独り立ちして今の商売を始めたわけであるが、まあ、目標というのか、野心というのか、は、それなりにあったわけである。
ワタクシ個人の心情心境について、皆さんはあまり興味ないことと思うので詳述はしないけれども、やはり、自分の経験を活かし、かつ試し、組織の力に頼らずに(いや、まあ、頼るんだけど)、この、いろんな観点からみて魅力的な土地で、なにかを成し遂げてみてはどうだろうか、というような、漠然とした気概があったのは事実である。
ネパールには産業が乏しい。ということは、いろんな起業の可能性がある、ということである。
ネパールでは電力、交通、水道その他のインフラが未発達である。ということは、それらの分野でスタンダードを作り、長きにわたって回収していくようなビジネス展開も可能、ということでも、ある。
ネパールは海岸を持たない内陸国であり、海を利用して生きてきた日本やシンガポールのようには(同じ戦略では)発展できない(あるいは、難しい)。が、世界に14座しかない8000m峰のうち、実に8座を有し、かつ、空港のある首都からのアプローチが(小国であるが故に)極めて短く、世界に冠たるシェルパ族を有している。その上、ヒマラヤ征服登山史の恩恵で、幅広く外国人を受け入れる土壌があり、インフラは未整備なものの、4000〜6000の未踏峰へのチャレンジの道も、比較的広く、開け放たれている(政府も年々、許可の範囲を広げている)。
これらヒマラヤから流れ出る水量は世界でも類を見ないほど豊富であり、これを利用した水力発電所をいくつか建設するだけで、インドとのエネルギー需給バランスを拮抗させることができる上、二酸化炭素排出を抑える形でのエネルギー政策の展開まで、可能である(と、言われている)。
ネワールを中心とした高度な職人芸術気質をうまくリードすれば、プログラミングではインドに負けても、グラフィック中心のIT産業を育成する道も、夢ではないのではないか。
等々、等々。
ワタクシ個人にできることなど、当然、限られている。というか、まあ、現時点でも、これらは夢物語にすぎない。
それでも。
それでも。
なにか、可能性を感じて、残ったのではなかったか。閉塞していく日本で、すり切れながらなんとか生きる道を探していくよりも、いろんな可能性(ツブれる可能性も含めて)の残るこの場所で、思いっきりやってみようと、思ったのではなかったか。
それは、わかっているのだけれど・・・。では今、ワタクシ自身に何ができるのか、そうした理想や理念を語る前に、今、目の前で困っている被災者に、何ができるのか・・・。
具体的な答の出ないまま、刻一刻と、時間だけが過ぎていった。
(つづく)