(つづき)

真っ暗な部屋の中で床に座り込み、地べたに だらん と落とした右手のビールを、ただただひたすら、空きっ腹に流し込みながら、なにしてんねん、なにしてんねん、と、一人で、しかし口には出さず、自問自答を続けた。

眼前では、十分に溶けきった ロウ を存分に吸い上げて燃えさかるろうそくの炎と、そこから立ち上る黒煙がゆらめき、見つめているうちに火焔の中に吸い込まれるような気がしてくる。まるで自分がろうそくの炎で火あぶりにされているような苛立たしさが湧き上がってきた。

ワタクシは学生時代に山岳部に所属していたこともあり、こういう暗闇とろうそくの世界には慣れっこで、むしろこの雰囲気は好きな方である。子供のころワタクシの地元では、梅雨時に激しい雷雨があるとすぐに停電になったもので、九州電力さんがたゆまぬ給電努力をしておられることもしらずに、雨が激しくなると兄弟みんなでろうそくを持ち出し、

「消えるバイ、そろそろ消えるバイ」

と、停電を楽しみにしていたほどであった(こら!)。



しかし今は、そういう雰囲気を楽しむような気分ではない(当たり前だが)。

ふ、と、

「メロスって、こんな気分だったんだろうなあ・・・」

と思った。


暗鬱とした作品群で後年を埋め尽くした太宰治の、初期の名作、「走れメロス」。

国語の教科書(今では中学2年の単元だ@光村)に出てくるので、知っているヒトの方が多いであろうが、牧人・メロスが「邪知暴虐」の王と対峙し、「信頼」と「不信」、「友情」と「裏切り」の対立構図の中で、ついには「信頼」と「友情」が勝利する、という、ハッピーエンドの冒険譚である。

妹の結婚式の準備で町を訪れたメロスが、国王・ディオニスが、人間不信により多数の処刑を行っていることを知り、宮廷に乗り込んで征伐しようとするも(!)、これを見とがめられ、逆に処刑されることになる。妹の式だけは無事に済ませたいメロスは、町に居る親友・セリヌンティウスに身代わりを頼み、3日後の夕日暮れまでに戻ってくることを約して村へ帰る。式を済ませたメロスが、村を出て、セリヌンティウスが磔にされている処刑場まで、ぎりぎりたどり着いて「信頼」と「友情」を身をもって示す、このくだりがこの物語のクライマックスである。

最初は降雨により増水した河に行く手を阻まれ、これをなんとか渡りきるも、今度は(おそらく王の放った)山賊に行く手を邪魔され、こちらもどうにか切り抜けるが、最後に彼を待っているのは「自分自身の心」という大敵。河の増水や山賊の襲来といった外敵よりも、自分の心の中に居る真の敵に勝つのが いかに難しいか(そしてそれがまた世の常でもある)を描き出した部分だ。

身も心も疲れ果てたメロス、自分はもう十分頑張った、許せ、セリヌンティウス、いや、許してもらおうなどと思うこと自体が「ひとりよがり」だ・・・と考えて一度はあきらめかけるが、ふ、と耳にした水の音で我に返り、この水を口にして気力が戻り、ここから処刑場まで一気に駆け始める

・・・というハナシの流れである。

昨年だったか、日本の中学生が自由研究課題で、史実と地理に基づいて計測すると、メロスの走った距離はわずか42kmで、かかった時間を文中から推測し、これで割り算をすると、時速たった3.9km/hにしかならない(歩いてる・・・それ。歩いてる!)ことを発表して話題になったが、まあ、日本の教育も捨てたものではない。


太宰のこの作品は、あの有名な、

「メロスは激怒した。必ずかの邪知暴虐の王を除かなければならぬと決意した」

という激文に始まり、時にテンポを落とし、時にたたみかけながら、メロスの純粋さ、ディオニス王の憎たらしさ(「いのちが大事だったら、遅れてこい。おまえの心はわかっているぞ」なんて、思い出す度に はらわたが煮えくりかえる)、セリヌンティウスのまっすぐさ(「無言でうなずき、メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった」)、等々を、短文に短文を重ねて、見事に描きだしている名作である。立ち上がったメロスが処刑場に到着するまでの間にも、処刑のウワサをする旅人を登場させ(「今ごろはあの男も磔にかかっているよ」)、さらにはセリヌンティウスの弟子を登場させて、「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。お恨み申します」と臨場感を盛り上げる。処刑場に到着し、「いま、帰ってきた」と叫ぼうとしても、ノドが枯れていて声が出ない・・・というだめ押しまでついてくる。

この作品は一般的には、王の改心を誘い、「どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」と言わしめる、「友情」が「人間不信」に勝利するおはなし、と、されているのであるが、一番の要点は、「信頼に報いる」こと、で、あった。発災の日に(いや、この一連のおはなしの中では昨日のお昼のことですけど、なにか?)居た、あの、補習校で、ワタクシはそのように生徒に教えた。

このおはなしの確信は、親友セリヌンティウスを助けることでも、悪王・ディオニスを懲らしめて改心させることでもなく、太宰が肝心な部分で二回もくり返して書いているように(Well-madeなこのおはなしで、たまたまくり返した、ということは考え難い。これは意図的な反復だ)、

「私は信頼されている。私は信頼されている」

これこそが、メロスの走る原動力になっているのだ(走ってないらしいけどね。笑)。


(つづく)


「走れメロス」