(つづき)

深夜2時になって、ふ、と、目が覚めた。町が寝てない気がした。

起きたついでに、と、トイレに立ってみると、窓の外から人の話し声がする。自宅(借り上げアパート)の庭は、人が寝起きできるほどのスペースはないから、不思議に思ってカーテンのかげから外を覗いてみると、アパートの壁の外にある空き地に、近所の方々が集まって、キャンプをしているのであった。


キャンプもテントもキライではないワタクシであるが、アウトドアの一環として寝るならともかく、生活の中でテント泊、という気には、なれなかった。それこれも、借りていたアパートの一室が極めて頑丈で、かつ、運良く大きな揺れがなかったとみえて、ほぼ無傷であったことが幸いしていたようだ。

余震が来る度、あるいはこの日以降、毎日夕方になると、アパートの外から大家さんの声で、

「そうね、今日もウチは家の中で寝ようかしら・・・ジャパニも中に居るから」

という電話での会話が聞こえたものだが(オレはセンサーちゃうっっっ!笑)、かなり前に建てられたと思われるワタクシのアパート、設計した人も建てた人も、相当セオリー通りの強度計算をしていたらしい。

家の中には、普通の感覚だと意味不明の柱や出っ張り、ぶあっっついカベなどがあって、家具を入れた当初は、

「もうちょっと有効にスペース使えへんのかい、この建物は?」

と思っていたが(家具を入れるとそうした柱やカベがネックになって、デッドスペースが相当生じた)、そもそも被害が少なかったラジンパットにあったとはいえ、ヒビ一つ入らなかったのには本当に感心した。

であるから、

「このウチがツブれるような余震が来たら、どこに居てもダメだろうし、その後の避難も、空港滑走路の状況も含めて、お先真っ暗だから、外に居ても仕方がないさ」

と割り切って、家の中で寝ていた。(・・・と、言いながら、しばらくはアタマの上にイスでシェルターを作っていたが。笑)


しかしネパールのご近所さんはそう割り切ることができなかったらしく、毎夜、ウチのウラの空き地に集まって、みんなで仲良く夜を明かしていた。

この日は2日目の夜だったから、ぼそぼそ声で、発災時の自分たちの状況を報告しあったり、今後の余震の見通しについての知識を披露しあったり、支給物配給物や、盆地周辺・甚大被災地の状況に関する情報を交換し合ったり、していた。

トイレから寝室に戻りながら、自分がいかに恵まれているか、改めて実感した。聞くところでは、邦人の人的被害も出てないとのことだから、日本人に関しては、探し回ったり、助けに行ったりする必要性もなさそうだし、パートナーとは直後に会えているし、その他のめぼしい友人知人も、どうやら無事なようだった。


自分も無事。

自宅も(電気はないけど)、無事。

冷蔵庫の中のものは問題だが、日頃の買いだめ精神が幸いして、炭水化物(コメ、乾麺等)や乾物類、缶詰等は、しばらく食っていける量がある。水も、一人で使うなら、1ヶ月はもつ量のミネラルウォーターが、ある。

風呂トイレ用の生活水は、電気が無いとポンプが動かず、屋根上のタンクに揚げることができないので、当面節水しなければならないが、まあ、風呂はウェットティッシュでの身体拭きで代用し、トイレはちまちまコップで水を足しておいて、寝る前に一度流せば良い。問題は食器の洗い物だが、これも使い捨てのものがかなりあるし、ラップを使う方法も併用すれば、しばらくは大丈夫そうだ。


真っ暗な中でそう思いながら、

「なんだ、ワタクシは、まったくへーきじゃあ、ないか。やれることをやらなくて、どーするんだ」

という気になってきた。お金を出したり、大人数を動員したり、大物資を寄付したり、は、(すぐには)できないが、五体満足なこの状況で、できることをやればいいじゃないか、という気がした。

ムリにやっても、できないものは、できない。できることを、できるように、やる。

そうハラが座ると急に眠気が襲ってきて、発災後初めて感じる、深い深い眠りに落ちていった。


(おわり)