スミマセン、書きかけがアップされてしまいました。リロードします。


(つづき)

「あちらの世界で幸せに生きていく」

ごく自然にそう思ったのであるが、なるほどアジアの知恵というのはこういうことだ。ヒトは死ぬのではなく、次の人生に入るのだ、と考える、知識としては十分すぎるほど知ってはいたが、否、知っているつもりになっていたが、圧倒的な数の火葬を目の当たりにしていると、そう思うことが心の安定に繋がるのだろうと、素直に思える。

キリスト教やユダヤ教では、個人は故人になっても、再度肉体に戻る、と考えるので、基本的に遺体を残す土葬を行うが、仏教やヒンズー教では、肉体は霊魂の容れ物に過ぎず、霊魂が肉体やこの世に未練を残すことを避けるために、むしろ早々に火葬するのだ(そしてそれは、早ければ早いほど良い)、という説を聞いたことがあるが、まさに東西の宗教観の違いというものである。

個人と神が契約し、キリストの「復活祭」まで宗教行事として設けているキリスト教と、開祖・釈迦をも火葬し、霊魂は我々の目に見えない世界(梵)に帰って行き、また新しい生を生きる、と考えるヒンズー・仏教の世界観の違いが、端的に垣間見える風習の違いである。

ヒンズー世界でも、ヒトとして人生を全うした、と認められない場合(変死、刑死等)は、火葬をしてもらえないことがあって、目の前で人体が燃えていく火葬ではおとなしく弔いをしているひとびとなのに、火葬を伴わない弔いの場(水葬や土葬)では、関係家族はみな、号泣、狂泣しているそうだ。

これはすなわち、

「あちらの世界で幸せに生きていく可能性が断たれた」
「人体が形として残るがゆえに、その霊魂もこの世に残留し、二度と生きることがない(!)」

という宗教観が根底にある、本能的な、しかし極めて倫理的な慟哭なのだろうと思う。ワタクシの眼前で荼毘に付されていく河原のご遺体は、もしかすると変死扱いで、ガート上では焼いて貰えないのかもしれなかった。


当地に長期滞在して、ネワールの祭祀事例を研究されている教授から聞いたおハナシでは、ヒトの一生のなかでさまざまに行われる祭祀儀礼で出てくる、多種多様な使用済み祭祀道具や人体の一部(髪の毛や歯、その他もろもろ)を、来世に持っていくモノ、今生に置き去りにしていくモノ、置き去りにするだけでなく、二度と復活しないように封印すべきモノ、等々に分ける文化概念がある、という。研究のお邪魔になるといけないから詳細は書かないが、そうした概念を具現化するための、儀式や道具、心霊スポット等もあるとのことだった。


このような事実を知ると、友人知人が亡くなった際に、驚くほどのスピードで荼毘が行われることも合点がいく。

経験した方も多いだろうが、最後まで横について看取ることができるほどの近しい親族ならともかく、そうではない友人知人の場合は、

「亡くなったらしい」

と連絡が入る頃には、すでにパシュパティで荼毘が始まっていることが多く、最初の頃は日本的な感覚で、

「あ、そうなんですか、知らせて頂いて有り難う。今やってる仕事が一段落したら、すぐに・・・」

などと回答し、当時の事務所は空港わきのティンクネにあったから、仕事のキリの良いところで(10分くらいしか経ってない)周りに断りを入れて、クルマで、そうね、15分くらいでパシュパティの駐車場に到着し、そこからわりと距離のあるガートまで5分くらい歩いて・・・とやってると、

「ああワタクシさん、お出で頂いて有り難うございます。たった今、火葬が終わったところです」

・・・どんだけ早いねん。


福井あたりの裏日本では、今でも同じ風習が残っていると聞いたことがあるが、ここネパールでも、ヒトが亡くなると遺体は布にくるみ、アレはなんというのだろう、竹で組み上げた担架のようなものに載せ、関係親族が8〜10人くらいで肩に担いで、一般的には、亡くなった場所(多くは自宅か病院)からパシュパティまで、歩いて運んで、荼毘に付すのである。ワタクシが伺った福井の風習では、亡くなった方が男性か女性か、その家族にとってどういう位置づけの方か、等により、誰がどこの位置で担ぐかが決まってくる、ということだったが、驚くことに担ぎ人達は全員白装束に身を包み、素足で(!)運ぶことになっているとのことで、アノ裏日本の福井で冬場に葬儀、なんてことになると、凍傷覚悟で、コレをやりとげなければならない(ならなかった)そうである。


こうした手作業、人力100%にも関わらず、ネパールの場合、亡くなってから荼毘まで、想像以上の短時間で行われる。(荼毘、ってのも、パーリ語語源の外来語だそうです、どうでもいいけど)

思うに、肉体が死滅してしまった場合、(完全にワタクシの想像でしかないが)霊魂が生命維持活動をできなくなる、というような、緊迫強迫観念が、あるのではなかろうか。霊魂は、一時的に人体を借りて「生誕」し、この世の生を生きるが、肉体が滅びたとたん、息も出来ず、血も通わず、見えず聞こえず食べられず、四重苦八重苦の中にたたき込まれる、というような感覚で、肉体の死滅にあたって本来霊魂が戻っていくべき「梵」世界に戻ることができずに、溺れたような状態にある、と、考えるのではないだろうか。ゆえに、死滅した肉体を可及的速やかに遺棄破壊することによって、溺れ、呪縛されていた霊魂が「梵世界」に解き放たれる、その、「梵世界」の象徴が、バグマティであり、ガンジスなのであって、ゆえに遺骨はここへ放たれるのでははないか、と、感じるところだ(ならもっとキレイにせんかい!バグマティ!)。


ハナシが飛んで恐縮だが(今さら何を言ってるの、ワタクシさん!笑)、ペンや手帳などを無くしてしまって大騒ぎをしていると、

「ワタクシさん、そのペンは、アナタから離れる時期に来たのですよ」

などとしたり顔で言われてぶち切れたことがあったが(日本人ですからね)、考えてみるとこれも、無常世界というのか梵精神というのか、自分の意志で所有したり離したりするものではなく、たまたま今、一緒に居る、という感覚で捉え直してみれば、それは、その通りなのかもしれない、と、今になって思うのである。


お金のあるなし、だって、英語で言えば「I have money」、主語の「私」が、目的語であるところの「money」を、積極的主体的に所有しているのだ!という考え方であるが、ネパール語では(普通は)

Ma sanga(i) paisa tza、

英語に直訳すると「Me with money is」、つまり、

Money is with me.

となり、「お金」が主体なのであって、天下のナントカではないが、たまたま今、お金が私のとこに居る、だからいつか居なくなるかもしれない、という無常観が、そっくりそのまま文法・語法に出ていて興味深い。


発災後、ネパールの方々の耐性の強さがニュースに上がっていたが、こういう精神世界に生きていることが大きく作用しているのではないか、と、敬意を感じると同時に、

Political power is with me.

とか、

Decision making entitlement is with me.

とか、

そういう風に考えてんだよな〜〜、きっとなあ〜〜〜・・・アノヒトタチハ、と考えると、「決定」とか、「決断」とかが、いかにほど遠いかが、無駄に深く理解できてしまって・・・・


ま、今夜も呑むか(笑)。



(つづく)