(つづき)

想さん曰く、タンプーラなくして、南西アジア伝統音楽なし。タンプーラの音を絶えず意識して聴いておかずして、声楽者や演奏家の本質は決してわからない、ということであった。

想さんの楽隊の構成は、「パカーワジ」という太鼓とタンプーラ2台、そして声楽家2名、というものであったが(声楽家2名がタンプーラを奏でるので、3名構成)、西洋音楽になれているワタクシ、どうしてもその時に歌っている(というとこれまた想さんに叱られるのであるが)想さんなり、もう一名の声楽家(ビシャールバッタライ)なりに、耳が、意識が、集中してしまうのである。

これは、もう、仕方のないことで(と思うよワタクシは。とほほ)、幼い頃から「伴奏」のある音楽に親しんできた我々現代人、

「ヴォーカル」

なり、

「楽器」

なり、

とにかく、主旋律(メロディ)を奏でている媒体の発する音を「主」、それ以外は「従」「伴奏」として無意識のうちに聞き分けるクセが付いてしまっているのである。それはそうだ、アイドルがここぞとばかりに歌っている声や歌詞を、後ろで演奏しているバックバンドのオッサン達の音と同レベルで聴いていたのでは、少なくとも我々にとっては音楽では、ないのである。

ところが想さんは言う。

「タンプーラがすべての南西アジア伝統音楽の基本であって、演奏する側も聴く側も、タンプーラをしっかり耳に入れて聴きつつ、その他の演者の音を同レベルで聴く、これで初めて南西アジア伝統音楽は、音楽として成り立つのです」

簡単に言っちゃってくれちゃってるが(笑)、これが案外難しいのだ。なにせこちとら、生まれてこの方メインメロディを、そうね例えばレベル7で耳に入れ、その他の音はレベル3〜5、間奏でギターソロが始まったら、今度はギターをレベル7で聴き・・・といったことを、本当に、無意識に、やってきているのである。30年間も。たぶん主要なレコード会社のミキシングの仕方も、そういう風になってると思う。

これを想さんは、タンプーラを(例えば)レベル7で耳に入れつつ、他の音も同レベル(5〜8くらいのカンジかな、ワタクシ的には)で耳に入れろ、とおっしゃる。

トライして頂くとわかるが、ホントにコレが、難しいのである。ちょっと油断すると、ホラ、もうヴォーカルメインで聴こうとしている(脳が)。しかももともとソレに(そっちの方に)耳が慣れているから、自分で「あ、いかん、おかしい」「間違ってる」ということに、気づきもしない。

そこでワタクシはもう、タンプーラ10、それ以外の音は聴こうとする耳と脳に任せて、とにかくタンプーラを聴く、という風に割り切ってやってみた。

・・・ら、脳がトロけた(!)。

これは驚愕の体験だった。瞑想だとかヨーガだとか幽体離脱だとかいろいろな精神世界が語られるけれども、ワタクシの脳はこの時、耳から入ってくる音によって間違いなくマッサージされていた(ホントだってば!)。

タンプーラのあの音、アレは活字でなんと表現すればよいのか、

う゛ぁいい゛い゛い゛い゛い゛いいぃぃんんんんん・・・・

というのか、

う゛ぅおぉぉぉおぉおぉぉおぉぉぉおおおんんんんん・・・

というのか、

まずあの音に全神経を集中させて、脳内にタンプーラの音のキャンバスを広げる。

このキャンバスを消さないように(絵画の場合は消えることはないが、音楽の場合は意識が途切れると消えてしまう)、これ以外の演者の音を、耳でその上に置き並べていく、というカンジだろうか。口中に含んだ美味しい魚介類に純米酒を合わせる時のように、その含む量や加減を考えつつ慎重に混ぜてみて、両方の音がキチンと融合して聞こえた瞬間(キャンバスの上で一つの音絵画(?)になった瞬間)、

全身がリラックスする

のであります。ホントに。


(つづく)