(つづき)

さて想さんによれば、インドでは趣味というか、たしなみとして、ドゥルパドをやる人もたくさんいらっしゃるのだとか。

ワタクシの小さい頃に、ばあちゃんが謡(うたい)だ、踊りだといって出かけていたが、おおざっぱにはそれに近く、しかしさらに伝統音楽を忠実に学ぼうとしているのだろう、時に、聴衆の方が演者より上だったりするのだそうである。

ドゥルパドには「ラーガ」と呼ばれる、楽典とスケール(ペンタトニックとか)をミックスしたようなルールがあるのだそうであって(スミマセン、ワタクシ、よく理解してません)、しかも音階の動きが限定されていたりするそうである。

つまり、Aのラーガは(全然知らないけど)例えば、

ド、レ、ファ、ファ#、ソ、ラ、ラ+0.6、シ

からなる、と決まっていたとき、

「ソからドに下がる時は、一旦ラ+0.6を経過して一拍子以内にドに移る」

といった細かいルールがあるそうで、これをみんなが知っている。

だから、Aのラーガでやっている演者がソからドに真っ直ぐ下がってしまったりすると、ブーイングが飛んだり、やめてしまえと叫ばれたり、席を立って出て行かれたり、するんだって(!)。

ラーガはドゥルパドの長い歴史の中で何百通りと組まれてきており、さらに今日もまだまだ新しいものが生まれているそうで(!)、演者はこれをキチンと覚え、ルールに則って演奏できるようにならねばいかん、ということであった。

さらにまた、上がる音階と下がる音階を変えても良いそうで(は!?・・・だよね、ワタクシもそー思った!)、

ド、レ、ファ、ファ#、ソ、ラ、ラ+0.6、シ

で上がるけれども、下がる時は

シ、ラ+0.6、ラ、ソ、ファ#、ファ、ミ(!)、レ、ド

的なこと(いや、テキトーに書いてるだけですよ、実際の音階を知っているわけではない、ただ、こういうことが許されている、ということ)が、起きるというのである。

でもってさらにさらに(まだあんの!?)、この「ラーガ」ひとつひとつにキチンとイメージというかコンセプトがあてはめられていて、

これは「夜」のラーガ

だの、

それは「雨期」のラーガ

だの、

というのが、決まっているのだという(ひーーーーー)。

想さんは実際に「雨期」のラーガ、その名も「メーグ」(雲)を、サワリだけやって見せてくれたのであるが、

ド、レ、ファ#、ソ、ソ#、ド (インド音階はサレガマパダニサなので、サ、レ、マ#、パ、パ#、サ)

という音階、これだけ聴いてみてもなにがなんだかわからないのであるが、これをタンプーラにぶつけた瞬間、あ〜〜ら不思議、

「。。。雨期??・・・うん、雨期だね。。。雨期だよこれ、おい、雨期だよ雨期。。。!」

って音になる。ガンジスのほとりの掘っ立て小屋のような安宿で、雨音を聞きつつ川音を聞きつつ、いつまでも止むことのない雨、しかしこれを静かに受け入れ楽しみ、喜んでいる音、に、なるのである(ような気になる)。

インドほど暑くはないが、ここネパールでも乾期はほとんど雨が降らず、乾ききった大地に降りしきる恵みの雨、洪水や土砂崩れ等の災害ももたらすけれども、流れてきた土が大地を肥沃にし、そこに植えられたインディカ米の稲がすくすく育つために必要な、大量の水をもたらしてくれる雨、この複雑な感情を感覚的に分からせてくれるような、そんな音階なのだ。

ウソっしょ、ねえ?作ってんでしょ、ハナシ?

と思うなら、やってみたら良い、タンプーラのチューニングがわからないので説明のしようがないが、これ用にしっかりチューニングしたタンプーラの前で、ピアノでもなんでも、上記音階を弾いてみた途端に、インドネパールを知る人であれば、

「あ。雨期だ、あははは、雨期だよ、これ?!」

と思うはずだ。脳裏にあの黄土色に濁った河の濁流、そこに降り注ぐ雨粒が、浮かんでくる(と、思う)。雨期には雨期の音階による演奏が多い、と、想さんが言っていたので、恐らく、自分自身の雨期の記憶とこの音階が結びついているのではないかと思う。

このラーガ、レシピではないけれども公的なものだけでも500以上あるらしく、しかも一つのラーガの習得に数年かかるのが通例とのこと、全部やろう、なんて日には、1000年以上かかってしまう計算になる。

こ・・・これはもう、一子相伝というか、なんか、修行の世界なのでは??

とワタクシが思っていると、得たりかしこ、想さん曰く、

「なのでまあ、ドゥルパドの修行はだいたい師匠と弟子で一対一、練習風景は落語とか、歌舞伎とかに、似ているかも知れません」

・・・なるほど、さにあらん。


(つづく)